結局論拠を見つけることができませんでしたでは話になりません。
この部分が、主に反論になっていない、論争になってませんと述べている部分です。論拠がなく、(個人的) 感覚に基づいた物をろばQは論と認めておりません。
http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200206.html#diary20020607_3 より
確かに、文脈を無視すれば、話になりません
などと揶揄したくなる気持ちも分かります。しかし、だからこそ、後半において(論拠の乏しい)仮定が否定されたケースについて論じているわけでして、とりあえず、話になりません。
と言われる覚えはありません。相手の主張の一部分を切り取りすれば、簡単に批判できる良い例でしょう。
ろばQさんには、私の知らない議論のローカルルールがあるようです。
「仮定を立て、それに基づいてある結論を出す」という論述の手法自体を否定されています。仮定に論拠がなければ論とは認めないのだそうで。これにはカルチャーショック(?)を受けました。
しかし、それは立派な「論」です。正しいか否かは証明されていない「論」です。大学の図書館の薄暗い部屋(謎)に行けばその手の論文が嫌になるほどあります。
仮定であることを明言した場合、論争相手は、その仮定の不当性を論述することによって容易な反論が可能になります。そのためにわざわざ明言しているのです。ですから、私の論じた「仮定の信憑性」を明確に否定すれば良いだけであり、それは議論ではありふれた状況です。実際、ろばQさんは「仮定の信憑性」を否定なさっているでしょう。それのようなやり取り(が|も)議論です。
で、ろばQさんは私の仮定の「信憑性」を否定されたわけですが、私はその論点について争うつもりはありません。恐らくコンセンサスは得られない部分だからです。そのため、仮定が成立しない場合についても論じた訳です。が、その部分には触れられず、「ろばQさんへの反論とは無関係ですが」と断った部分を一々引用し、批評するのは何の目的があるのでしょうか。
- 反論
- 相手の意見や批判に反対の意見を述べること。また、その議論。「政策批判に―する」
goo [国語辞典] より
反論になっていない、とは例えば、相手の主張に異を唱えているように見えて、実は相手の主張に賛成している、といった特殊な状況でなら分かります。が、私は明らかに反対の意見を述べました。
仮にその反対の意見に論理的矛盾があったとして、反論になっていないわけではありません。仮定を立て、それを出発点として何かを否定したとして、反論になっていないとは言えません。私が仮定を明示しているのに対し、ろばQさんは仮定を暗示している、という違いがあるのみです。あらゆる論述には明示的・暗示的に必ず仮定が存在します。意図する論点を明らかにするには、明示した方が良い、というのが我々の考え方です。