Jintrick.netagenda2001年07月アーカイブ → 2001年07月24日

天上天下 唯我独尊についての誤解

「我」についての誤解の誤解

一般的に、天上天下 唯我独尊は「俺はこの世で最も尊い存在だ」と解釈されるが、仏教徒ならば、まずこの解釈に抵抗を感じる。釈迦がいかにも傲慢であるかのような印象が不愉快だからである。

そのように感じる人は、しばしば「我」を「我々人間」と解釈する。「私たち人間はこの世で最も尊い存在である」と曲解してしまうのである。もちろん「俺はこの世で(以下略)」も間違っていることはいうまでもない。

重大な見落とし

しかし実際は、天上天下 唯我独尊の後に、三界皆苦 我当度之と続くのである。三界皆苦 我当度之とは、「この世は苦しみで満ちているが、がこれを取り除くものなり」という意味であり、このは明らかに釈迦自身のことを指している。もし我々という意味であったなら、これは「宣言」ではなく「説法」になってしまうだろう。しかし釈迦は生まれながらにして悟りを開いていたのではないので、このときに説法をするとは到底思えない。

天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度之の正しい解釈

つなげて解釈すればこうなる。

「天が上、天が下、私が最も尊い者となり、世に満つる諸々の苦しみを除くものなり」

「最も尊い」ということをただ単に自負しているのとは訳が違う。この世の苦しみを取り払う。だからこそ最も尊くある。

命こそ最も尊いと自分に言いきかせる人もいるだろう。しかし、それは先天的なものではあるまい。歴史上、母国の為に命を投げ出したものは数え切れぬほど要る。「いや、それらの人は洗脳されていたのだ」というのであれば、この国で死亡原因の第一たる交通事故の元凶「自動車」を何の疑問も無く平然と乗り続ける人がいるのは何故か。また、自殺以外の目的で線路に飛び込んで死んだ男の行為が賞賛されるのは何故か。彼は、自分の命を蔑ろにして、他人の命を救おうとしたが、結局二人とも死んでしまった。

人は死にたくないのである。尊いと言う表現は、そのどうしようもなく先天的な「気持ち」の正当化に利用しているに過ぎない。最も尊い何か。それは、人間一人一人が先天的に理解しているものであるような気がする。

私個人にとってはそれは父であり、母である。命を与えてくれたものこそ、最も尊いと感じる。


webmaster@jintrick.net
公開: 2001年07月24日
カテゴリ: misc