知的所有物というのは実際にはどこにも存在していないのだから、それを「所有している」ということは、要するに「他人にわたしはそれを所有しているのだ、と信じてもらえるということ」と等価で、一種の信仰のようなもの。いくら「わたしは所有している」と言い張っても誰も認めてくれなければ所有していることにならないし、逆に自分では所有している気はなくても人々が所有していると認定すると所有していることになる。
「だから」になっていない。 と気づくと形而上の問題が浮上。