ほかにもいろいろと意味があると思うのだが、引越のもっとも大きな意味は「読者を煙にまく」ということではなかろうかと思う今日この頃である。
これを読んで考えたこと。
何でも日記で扱う必要はないのであって、資料的な価値の高いものはまとまった文書として公開した方が良いと思います。
サイトポリシーを「日記」に書いて、「なびげーしょんばー」の「サイトポリシー」でその日記記事を参照しているようなサイトも海外には沢山ある。日記であるかどうかが問題ではなく、再利用できる質になっているかどうかが問題。日々記すから日記だ、と言う人もあるが、自分の書く文章を「日記」という枠にくくってしまうと、どうもその質に対して無関心になる傾向があるのではないかと思っている。それゆえ日本ではそのような再利用が少ないのではないか。
後述の見せ方の問題と絡みますが、商用サイトや公共サイトとの違いに着目するなら、個人サイトでは閲覧者の利用の仕方が大きく違っているはずで、以前申し上げたように、日記のページがトップページ(というか、実質的なサイトの顔)の役割を担っていることがずっと重要だと思います。ある公開アンテナからある日記に初めてアクセスしたときは、そのサイトで取り扱っているテーマなどを素早く把握できると良いなあと思うことが多くあります。日記の話題が、サイトの扱っているテーマを主なものとしていれば、そのサイトの内容が素早く把握できます。
いつも読んでくれている常連の読者にとってはどうか。毎回、日記以外の余分な要素がレンダリングされるのは私は御免だ。サイトの内容を把握したいと考えたなら、その前にまず日記の内容を読むはずであり、日記の内容を読めばその著者の関心を理解できることは多い。それでも尚テーマが不明な場合に限り、サイトの表紙を参照すれば済むこと。ゆえに私は日記と表紙が一体になっていることが重要だとは思わないが、新規読者を獲得することを第一に考えるなら確かに重要かもしれない。