アメリカに「報復するな」と言う人とか、上院・下院で可決されたコトについて苦言を言っている人というのは……イヤ実際、私の知人にもいるのだが……、自国の国民、そして自国を訪れていた他国の人間が数千人殺されたコトに対して、報復をしない、「何もしない」コトが、国民や他国にどう思わせるかってコトを考えているのだろうか。
番長方面日記 より
考えていないと思う。恐らく観念でしかないのだ。こういった深刻な問題も、彼らにとってそれらは単なる物語、あるいは映画の中のワンシーンに過ぎないからだろうか。あんなにおぞましい映像を見せつけられても。
戦争を否定するというのなら、まず始めに代替手段について自分なりに十分検討していなければおかしい。そういう代替手段は当然無いだろうが、その上で遺憾を表明する、というのが戦争を否定する真面目な人間の取る態度だと思う。
ほーむぺーじ論の著者にもこれは当てはまる。アクセシビリティについて自分になんら深刻な問題がなく、具体的に何かを考えたことが無いにも関わらず、強引にアクセシビリティを自己正当化の飾りにしようと考えるから、こういう訳の分からないことを書くことが出来るのだろう。
インターネットもそういったメディアの一種になってきていますが、受け取る人にとってのインターネットは最近ユーザビリティなどが進んできましたが、創る人・発信する人にとってのアクセス性はまだまだです。
創る人・発信する人にとってのアクセス性
とは一体何なのか。アクセシビリティとは、すべてのユーザーが、如何なる環境においても情報その他を利用可能にするために追求されるものである。製作者にとってのアクセシビリティというのは言葉自体矛盾している。利用するという側に立った時点でそれはユーザーである。この人のアクセシビリティとは、観念でしかないに違いない。