すぐにそれは自由でしょう
、そんなの自由じゃないでしょうか
と言う人間は、馬鹿か、あるいは相手を馬鹿にしているかのどちらかであることは明白であるため、相手を馬鹿だと思ってしまえばもうその相手から得られるものは無くなってしまうことを知っている者は、相手の意図を後者のように解釈する。
しかしこの解釈は行間を読んで発生したものなので、それに対するストレスは同じく自分の文章の行間に込めればよい。そういったものを風情だと感じられるようになれば、ウェブ上での議論も案外うまく行くものなのかもしれないが、残念ながら「花見」という言葉を聞いて、真っ先に「宴会」を連想する日本人に、そのような能力は最早期待することはできない。
#マークを使って、議論の核と、フレイムとを分離するのはどうかという提案をしようとしたことがあったが、フレイムの存在自体が悪であるという意見が大勢を占めていたため、引っ込めた経験があったりする。