謝罪は、免罪符ではない。
謝ったのであれば、改善が期待されるものであり、謝ったからといって、いつまでも同じ過ちを繰り返されたのではたまったものではない。
但し満員電車で降りるに降りられない場合に「ゴメンナサイ、スミマセン」などと声をかけることなどは、誰もが納得する止むを得ない事情があるというケースであり、これは謝罪ではなく社会的配慮である。これは区別するべきだろう。
ところが、驚くべきことに、人が嫌がることを知っているので予め謝っておいて、知らぬ顔でそれを強行しているケースが頻繁に見られる。
嫌いな方ゴメンナサイ。このHPではフレームを使用しております
もしかすると、フレームが嫌いな人を煽っているのだろうか。いやいやそんな筈はない。私は人を信じる。彼(女)らは単に誤解しているのである。ウェブサイトが我が家であると誤解をしているだけなのである。だからこそ、「お客さん」の不愉快は謝って許されると考えるのである。そのように考えると、何とも見事に理解できるではないか。推奨環境、リンクの制限行為、オブジェクトで飾り立てる、突然音楽を鳴らす、Sorry,Japanese Only(違)、Enterとのみ記述された玄関のようなページ等など 。ただ一点、鍵をかけないのがとても不思議だが、大家さんがそれを許してくれない場合が多いのできっと止むを得ないのだろう。もっとも大家さんにそこまでの権限があるという奇怪な事実で、誤解であることを気づいて欲しいのだが。
私が「ほーむぺーじ」や「HP」という言葉を嫌うのは、本来の意味と違うとか、何とかパッカード社が迷惑しているとか、単に不快だからではなく、ウェブサイトを家であると誤解されてしまう原因のような気がするからなのだ。
冗談はさておいて、フレームの話。
ただ一方、フレームは使いようによっては大変に便利なものであり、多くの一般的な使い方をする限り、ナビゲーション構造を文書から分離して再利用していると考えることができる。例えばThe Blue Flame Cafe--Encyclopedia of the Bluesのような使い方である。ここのような詳細なindexをそれぞれの文書に埋め込むとなると、これは全く非効率的である。代替手段としては、index用のファイルを別窓で開かせるか、以前言及したように外部jsやobject要素を用いて各ページにナビゲーションを埋め込むか、の選択になるだろうと思う。
私は、サイト構造を明確に示したナビゲーションの存在は、ウェブサイトの構築に是非とも必要なものだと思っている。各文書が、全体構造を示したファイルと直接結び付くことで、初めてウェブサイトたり得るのではないか。結果としてユーザビリティを高めることになるが、本質的な意味はそこにあるのではないかと思っている。
ところがフレームでは、サイト構造と各文書を論理的に結び付けることはできない。視覚的に結び付いていることができるのでさえ、玄関となるトップページを開いた時だけである。ゆえに私はフレームを用いてサイト構造を分離しようとは思わない。
・・てな感じでフレームを使いたいという誘惑を完全に断ち切ることに成功しました。2001/7/4 PM 7:30