かういふ反論はありうると豫想してゐました。つまり、
誰も芸術活動をしているわけではない(と思う)から、別に粗雑だとも稚拙だとも思わないな。全てゴールに依存するといふ考へ。しかし、それはいささか、文章といふよりも言葉や言葉遣ひに關して、無自覺だといはざるを得ない。「正確に物事を傳えること」を言葉の役割だと考へるならば、そしてその物事が、單純に割り切れるやうな性格のものではないならば(それが現實であるはず)、必然、勸善懲惡な、或いは片一方だけを採り挙げるやり方は、「惡い言葉の遣ひ方」といふことになる。雙方に一部の眞理が認められるならば、それぞれの眞理に見あふやり方で、昇華する必要があるわけです。
政治的人間にとっては「正確に物事を伝えること」が言葉の役割であるとは限らない。「正しく物事を伝えること」が言葉の役割である。 後日談として。加納氏はこの後の私の反論に頭に来たようだが、実は勸善懲惡な、或いは片一方だけを採り挙げるやり方
だって、或る教育家にとって正しい方法である。
かういふ反論はありうると豫想してゐました
という加納氏の初っ端の反応にかなり頭にきていた。最初に「あなたの反論は想定の範囲だよ」と宣言するのは「無礼」だからだ。加納氏はこのあと私を無礼だと言ったが、最初に無礼なことをしたのは加納氏であることは注意しておいてよい。