「リンクとは」の項では、「リンク」を説明するのに「リンク」という単語を使用している。当然ながらリンクの定義にはなっていない。何故はっきりさせることができないのかは、読み進めると明らかになる。
読んでみるとリソース共有派とコミュニケーション派というそれぞれの立場から見た一つの解釈として「リンクとは」が登場する。「リソース共有派」の理解は次の通り。
リソースを見る際の利便を如何に図るかを主題としてリンクを利用します。つまり、リンクとは参照の技術であり、文書同士の関連性を示すものという理解なのです。
何が「つまり」なのかが不明だが、一つの「理解」らしい。では対立する「コミュニケーション派」の理解はというと、次のようにある。
サイトを作った人の意向を如何に尊重するかを主題としてリンクを利用します。つまり、リンクとはコミュニケーションの手段であり、サイト同士の友好関係を示すものという理解です。
それはまあ関連性を示すものなんだから、友好関係を示す場合もある。コミュニケーション派がリンクの解釈を狭めているということを明らかにしているわけだ。ところが著者は、コミュニケーション派の解釈をリンクの拡張と呼ぶ。
コミュニケーション派からすれば、リンクの技術はコミュニケーションのためには不十分です。したがって、彼らはリンクにマナーを付け加え、拡張しようとします。
そういうのを「制限」というのだ。何かを加えたからといって拡張されるとは限らない。
どうも両者のリンクの解釈を対立させようとしているが、実は対立関係ではなくて包含関係にあったということ。するとリソース共有派とコミュニケーション派という分け方は、リンクの解釈の対立の構図を中立的に解説するのに不向きであることが明らかになる。この「ウェブリンク論」が二つの派閥を仮定して示すことができている対立関係は、「文書」と「サイト」という、リソースの単位についてのそれぞれの解釈の違いだ。これをテーマにしていれば秀逸になり得たのに、既にはっきりしている事柄を今更ぼかしてくれても。